いつだって、できることなら目覚ましが鳴るまで、起きなければならないその瞬間までぐっすりと眠っていたいと思うのが人情だ。 一分一秒でも布団が恋しいこの時期ならばなおさらのこと。 それなのに、まだ起床時間には遠い真夜中、銀時は布団の中で目が覚めてしまった。理由はすぐにわかる。下腹部に感じる違和感のせいだ。
寝がえりを一つ打って、気がつかなかったふりで再び眠りに落ちようとあがいてみるけれど、一度気になってしまったものはなかなか無かったことにはできない。
あーー……便所行きてぇ………。目を閉じたまま頭の中で呟く。このまま我慢してやりすごすべきか、それとも潔く用を足しに行ってスッキリした気分で再度眠るべきか。
そんなことを考えている間にも刻一刻と朝は近づいて眠る時間を削っていくのだが、それを分かっていながらも覚醒と共に寒さもしっかり感じとっている脳には 、なかなか冷たい廊下を通り便所まで歩いていって用を足すという決断を下せずにいた。
しかしどうせ気になって眠れやしないのだ。それにうまい具合に眠れたとして、無いとは思うが万が一にでも寝小便なんてことになったら目も当てられない。
結論など考えるまでもなく決まっていたのだが、銀時は結局十分ほど時間を無駄にしてから布団から出る覚悟を決めた。
すでにすっかり意識は冴えていて、布団を脱いだ瞬間襲ってきた寒さに身震いする。 寝ていた和室から居間を通って、眼をこすりながら廊下に出ると想像通りの冷たさに思わずつま先立ちになりながら早足で歩いた。
開けたままにした部屋の戸から漏れる明かりを頼りに空気も凍っているような寒く真っ暗な廊下を進み、玄関前にある廊下の電気のスイッチを入れる。 そのまま厠へ向かおうとして、ふいに目に映ったものに銀時はギョッとしてその場で立ち止まった。
まだ夜明けには遠く、玄関から見える外の様子は暗闇だけのはずだった。それなのにすり硝子戸の向こうには、紺の闇ではなくぼうっと赤い色が映ってる。
一瞬ビクリと身をすくませた銀時は、しかしすぐにその正体を悟ると心拍数を上げていた驚きを苛立ちに変え、スリッパをつっかけて三和土に下りた。
バタバタと足音が鳴るのも構わぬ足取りで鍵を開けると、銀時は乱暴に玄関を引き開けた。
「こんばんは」
喋る声と共に、白く濁った息が暗闇に浮かびあがって溶けた。外に立っていた桂に向かって、銀時は返事の代わりにはぁ、と一つ思い切り溜息を吐く。
「何やってんだよ、こんな時間に」
聞きながら、女物の着物に化粧をしている格好からして、どうせまたかまっ娘倶楽部の帰りなんだろうなと予想はついた。 唐紅の袷に芥子色の帯といつもより少し華やかな色合わせに、髪を片側に寄せて結っている桂からは仕事帰りのアルコールの匂いがする。
やはり西郷殿のところの帰りだと言う桂が、夜分にすまない渡したいものがあってと言うのが、銀時の耳を半ば素通りしていった。
桂はいつも青白いくらいの頬も鼻先もすっかり赤くなっている。店からここまで歩く間に体はきっと冷えただろうに、銀時が布団の中で埒もなく寝がえりを打つ間、一度もチャイムが鳴るのを聞いた覚えは無かった。 それ気づいて、こいつは一体いつからここに立っていたんだと思い、さっさと起きてくればよかったとぐずぐずしていた自分に無性に腹が立った。
「上がってろ」
「え?」
銀時の言葉に、桂がきょとんとした顔で見返してくる。
「俺は便所」
「連れションがしたいのか?」
「じゃなくて、俺は便所行って来るから先に上がって待ってろ」
そう言って、まだ立ち尽くしている桂をひっぱりこもうと掴んだ手は思いのほか冷たくて、腹立ちまぎれに引っ張ると桂が覚束ない足取りで境界線のような玄関の枠を踏み越えた。 立っている内に固まってしまった足で慌ててバランスを保ちながら、それだけで、ずいぶん温かい場所に来た気分になるものだと桂は思った。
「閉めとけよ、寒いから」
「あ、あぁ、わかった」
その声に、銀時は掴んでいた手を離すと当初の目的を果たすべく厠へ向かう。 途中そっと振り返ると、桂はこちらに背を向けて玄関の鍵をかけているところだった。


銀時が部屋に戻ると桂がソファに腰かけていて、その後ろに置いてある部屋に一つきりのストーブに火が灯っていた。 銀時はストーブの前にしゃがみこんで、洗って凍えた掌をかざす。 背中に桂の視線を感じながら、こんな時間に何しに来たのと尋ねると、
「これを渡しに」
そう答えが返って、桂が何かを取り出す気配がする。温まった両手をこすり合わせると、銀時は立ち上がって桂が膝の上に置いていた紙袋を一緒に覗きこんだ。 そこから桂は綺麗な包装紙とリボンでラッピングされた、いかにもという箱を取り出して銀時に寄越す。
そうして同じようなものをあと二つ袋から出して、これは新八君とリーダーへと言って机の上に置いた。
銀時は受け取った箱を思わずまじまじと見つめてしまう。 同じようなピンク色の箱を、銀時は昨日新八と一緒に四つ獲得していた。
中身は夕飯の後に神楽に散々「ありがたく思うアル」と言われながら三人で食べて、 くれたはずの神楽が一番多く食べていたのだが、そんなことはどうでもいいとして、言いたいのは今はもう日付なんてとっくに変わってしまっているということだ。
「これって……」
「バレンタインのチョコレートだ」
「いやもう終わってるし。今年は4個でファイナルアンサーだったんですけど、お前今日が何日か分かってる?」
「分かっているに決まっているだろう。俺は寝ていないからまだ14日の続きだ」
桂は真面目な顔をして堂々とそう言い放った。
「ちゃんと貴様のために用意してたんだぞ」
「で、持ってくるのを忘れていたと」
「忘れてない。ただ……昼間はリーダーが頑張っていたので邪魔をしてはいかんと思ってだな。タイミングを見計らっている内に出勤時間になってしまったんだ」
「もしかして、お前また外でスタンバってたの?」
聞いた銀時に、桂が答えずに目を伏せる。 きっと神楽だって、桂が現れれば一緒になってチョコを渡すか、またはチョコを渡す相手に桂の名前を付け加えるかするだけだろうに。 なのに、こんな風に桂はたまに自ら一歩ひいてしまうような所がある。 その度に銀時は歯痒い気持ちになるのだが、だからといってうまい言葉も出てこない。
さっきだって、桂は銀時が気づかなければまた諦めて帰っていたのかもしれない。
「ったく、何を気にしてんだか……」
「べつに気にしてない。月詠殿からのチョコレートがあれば俺のはいらないかもしれんが……」
「めちゃくちゃ気にしてんじゃねーか!バカ、そんなわけないだろ。……じゃなくて、あーその、銀さんがチョコを逃すわけないでしょうが」
かぶってないからね、何回も言うけどと桂の頭をぎゅっと押すと、銀時は桂の隣に座ってさっそくラッピングを解いて箱を開けた。 中には茶色いココアパウダーと白いパウダーシュガーがかかったトリュフが並んでいる。
「お、旨そう」
チョコレートの甘い匂いに頬を緩める銀時に、桂が乱された髪を撫でながら「俺が作った」と言って出来栄えを確認するように少し顔を寄せて箱の中を見る。
「え、マジで?ヅラが?」
「ヅラじゃない。桂、じゃないヅラ子だ」
手作り、と聞いて不覚にもテンションが上がるのはきっと男の性だからしかたがない。
「まともじゃん。料理なんて蕎麦以外まともに作れねぇくせに」
「そんなことはない、他にもできる。ただ、他の料理は銀時の方が上手いだけだ」
「そうね、料理下手くそだもんねヅラ」
「下手で悪かったな。……しかし俺は九兵衛殿のように男子厨房に入らずとは思っておらんぞ」
少し拗ねたような口調で桂が言う。
「だからキャラかぶりなんてしてねぇって」
呆れて苦笑しながら歪な形の白いチョコレートを指でつつくと、銀時の指先に粉砂糖がついた。食べたい気持ちと、食べることを惜しむ気持ちを半分ずつ抱えながら白くなった指先を舐める。
「ていうか、そんなに気にするならカタブツもくそ真面目もやめちゃえば?」
「そんなのどうやってやめるんだ?」
ふと思いつきで言った銀時の言葉を、桂がそれこそくそ真面目に聞き返すのが可笑しい。
「んーそうだな、例えばこれを、」
そう言って、銀時が箱ごとチョコレートを差し出すと、桂が首を傾げて茶色いのを一つ摘みあげた。 不思議そうな顔をする桂に、ちょうだい、と銀時は大きく口を開ける。
桂は銀時の口にチョコレートを一つ放り込む。ココアの苦い味が舌の上に広がった。
「何キャラだこれは?」
「さぁ?」
そんなことどうでもよくなるくらい、甘いチョコレートが銀時の口の中で蕩ける。
「旨いか?」
じっと銀時の表情を窺う桂の、どこか心配そうな声とやはり真面目な表情に思わず笑ってしまいそうになる。
「ん、旨い。チョコレートはヅラに負けるかも」
そう言うと、桂に満足気な笑みが広がる。
「ヅラも食べてみる?」
ただしこれは俺のだから、と言って少し顔を寄せた銀時の唇を桂がペロリと舐めて、すぐに口の中へ舌が滑り込んで来る。
銀時の中に残ったチョコレートの味を探し出すみたいに、口の中をあちこちくすぐる桂を追いかけるように舌を絡めた。 何度も互いに唇をくっけてじゃれ合いを楽しみながら、銀時は片手で持ったままのチョコレートの箱をテーブルに避難させるタイミングを計る。 これこそバレンタインだろう、と心は弾むばかりだ。
昨日チョコレートをくれた神楽の気持ちも、女の子たちから貰ったチョコレートも大変嬉しかった。それは紛れもなく本心だ。
けれど、これは別物だから仕方がない。 なにせ桂によると、まだバレンタインの続きだと言うのだから、朝が来るまでにやり残したことをやりきらなくてはならないのだ。


<終>