大晦日から降り続いた雪で、新年1日目の東京の街は珍しく雪で薄化粧を施されていた。
現在時刻八時半。冬とはいえ、もう日は高く昇っている。
白く積もっていた雪は既に溶け始め、銀八が歩いているこの道には初詣にでも向かうの
であろう人や車に踏まれてできた、茶色いシャーベットが道の端に残っているくらいだった。
それでも、寒いのには変わりが無い。
ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、ピチャピチャと濡れた道を歩く。
スクーターは用心のために乗ってこなかった。
アパートからこの寒い中を三十分近く歩いて、目指す場所がやっと見えてくる。
そこは、住宅街に埋もれるように建つ、こぢんまりとした神社だった。
普段はそこにあることすら忘れられがちのくせに正月だけは人が訪れるようで、張り替
えられたばかりのしめ縄が架かる鳥居の下には、
幾人かの初詣客が見える。
その中に、茶色いコートを着た黒い髪の人物を見つける。
特徴的な艶やかな黒髪は、今日はマフラーに覆われていてわかりにくいけれど、本当は腰
の上辺りまで伸びている。
歩くうちに向こうもこちらに気が付いたようで、桂は早足で寄って来た。
「先生、あけましておめでとうございます」
「ん、おめでと。今年もよろしくねヅラ」
よろしくお願いします、と綺麗に頭を下げて、そしてヅラじゃありません桂ですと言うのも忘れなかった。
新年なんですから、いい加減にしてくださいという桂に銀八は小言始めだと返しながら、二人は鳥居をくぐる。
境内にも、まばらながら人の居る様子だった。
神社なんて場所柄がそうみせるのか、静謐な空気に、松の木や屋根瓦にも、外の世界よりも白い部分が多いような気がする。
本殿へと続く参拝道を、正月の定番、お雑煮についてだらだらと話しながらゆっくりと進む。
前の客とかち合わないように、歩く調節しながら並んで階段を昇った。
昇りきり、小銭を投げ入れて、パンパンと二回柏手を打って願い事を一つ。
短い願い事終えて目を開けると、一拍遅れて桂が顔を上げ、何をお願いしたんですか、と聞いてくる。
銀八がちらりと周りを窺うと、次の客はまだ階段の下に居た。
それを確認して、髪に隠れた桂の耳に唇を寄せて囁く。
「来年は、ヅラと姫初めできますように」
その答に、言葉くらいは知ってるらしい桂が飛び跳ねた。
訴えますよ!と露骨に顔をしかめて、そのくせ今年じゃないんですか、と無邪気に尋ねてくる。
「お前、あと三ヶ月は高校生でしょうが」
生徒でいる間は手を出さないと、健気に守り続けている自分を、神様は誉めてくれてもいいと思う。
だって、隣の子供は全く感心してくれない。
「もっと、まともな願い事はないんですか?」
「まともって?」
「ええと、クラス全員の合格とか……」
「自分のことは自分で何とかしましょう」
それがうちのクラスのモットーです、と我ながらやる気の篭らない声で言う。
それに。
「だいたい、お前の進路だってもう決まっちゃってるし。あーあ、もっとこう、高校教師の醍醐味的なさぁ……」
放課後の進路指導とか、将来の悩み相談だとか。
二人っきりの教室でアブナイ雰囲気になっちゃったりとか、そういう憧れのシチュエーション。
生徒には手を出さないという信念を曲げる気は無いけれど、そういう願望もそれはそれで本心である。
なのに桂ときたら、年内の内に滑り止めに続いてあっさり第一志望の大学に合格してしまい、銀八が相談に乗る隙さえ与えてはくれなかったのだ。
「そういうお前は何をお願いしたの?」
もう大学は決まってるしと尋ねれば、ずーっと先生と一緒にいられるようにです、と恥ずかしげも無く桂が言った。
そうこうしている内に、次の客が来ていたので場所を譲ることにして、参拝順路にそって進むと、本殿から社務所へと続いているのが見えた。
ちょっとタバコと足を止める銀八に、先に見てますねと桂が社務所の方に歩いていった。
火をつけたタバコを咥えてその後をのんびりと追うと、桂は中の巫女さんと話しているらしかった。
じゃりを踏む銀八の足音に、桂が振り返る。
窓から張り出した棚には破魔矢やお守りが並んでいた。
「何?なんか買うの?家内安全?交通安全?」
「恋愛成就です」
そう言って、桂は今度は中まで聞こえないように落とした声で、先生のと二つ買ってもいいですか、と尋ねてくる。
この年で、お揃いのお守りなんてと思えども、期待するような桂の瞳に反対する気にもなれない。
それで、どうぞと言えば、桂が嬉しそうな顔でお札を手に取ったので、銀八は思わずゴホ、と盛大にむせる破目になった。
「ちょっ、ヅラ、せめてお守りにして!」
お札は何だか、執念が篭ってそうで嫌だ。桂が持っていると特に。
中身は一緒ですよ、と桂は言うけれど、形が違うだけでだいぶ違う気がする。
祟られそうで怖い、とちょっと本気で止めにかかった銀八に諦めて、桂はじゃあこの青いの二つください、と巫女さんにお守りを手渡した。
さっきからずっとそこにいた巫女さんは、ニコニコと笑顔でそれを受け取っている。
アレ?なんかコレばれてんじゃねぇの?
どうにも居た堪れなくなって、銀八はさっさとその場を離れた。
落ち着かない気分でタバコをふかしていた銀八のところに桂が戻ってくる。
桂が買ってきたお守りを一つ受け取ると、それをポケットにしまった。
自慢じゃないけれど、こういう物を長い間持っていられたためしが無い。いつのまにか、どこかに無くしてしまうのだ。
銀八はポケットの中で、確かめるようにサテンのつるりとした生地を撫でる。
けれど、まぁいいかと心の何処かで思った。
そうしたらまた来年新しいのを買えばいい。
桂には怒られるかもしれないけれど。
「先生、おみくじ引きましょう!」
そう言った桂の向こうで、溶け残った雪に太陽が反射して銀八は目を眇めた。
今年もいい年になりそうです。