初夏に相応しい昼間の暑さを忘れるように、涼しい風が吹いていた。
夜もすっかりと更けて深夜と呼ばれ始める時間、ふらりと銀時が桂の元を訪れた。
少し顔を赤くした銀時は、既にどこかで一杯やってきた様子で、勝手知ったるとばかりに気安く上がりこんでくる。
こんな時間に、と口では言いながらも、乞われるままに酒と酒のあてを探し出してくる自分に、桂は既に慣れてしまっていた。
戸棚から開けさしの甘納豆と麦チョコの包み、冷蔵庫からエリザベスお手製の佃煮を出してきて卓袱台に並べると、他愛も無い話をしながら冷酒のグラスを傾ける。
桂がここに越して来た時からあった使い込まれた黒い円卓は、二人で向かい合うにはちょうどいい大きさだった。
同じ江戸の町にあっても民家が軒を連ねるこの辺りはずいぶんと静かで、開け放した窓からはジジッと夏の虫の鳴き声が響いていた。
少し湿気った麦チョコを摘みながら、そういえば今日、珍しいものを見たと銀時が言った。
「蛍」
「蛍?」
「うん。今日、つーかさっき、屋台で飲んでたら飛んでた」
「こんなところに?」
「マジだって」
見間違えではないかと尋ねると、何と見間違うんだよあんなもん、と銀時が甘納豆を一つ口に放り込む。
いつも行く馴染みの屋台で一人で飲んでいると、暗闇にふわふわと黄色い光が一つ飛んでいたのだと銀時が言う。
「それは人魂だ」
その言葉に、甘味を噛み締めたはずの銀時が嫌そうに顔をしかめた。
酒が喉を焼いて、滑り落ちていく。桂は自分でもあまりいい冗談だとは思わなかった。
「そうでなければ蛾」
「蛍か、そうじゃないかくらい分かるっつーの」
昔散々見たじゃねーか、とそう言われると桂としても信じないわけにはいかない。
子どものころ、二人の育った町ではこの時期になると小川の傍の雑木林に無数の蛍が舞っていた。
圧倒されるほどの光の群れ。
黄色い光がふわり、ふわりと飛ぶ、それは何と似ているとも言えない幻想的な光景だった。
それが本当に蛍なら。
「おおかた、田舎の方で子供が捕まえて来たものが逃げ出したのだろうな」
「だろうな。この辺の川にはいねぇもん」
銀時も同じように考えていたのだろう、この町の川ではもう蛍が住むことはできない。
天人の科学技術、そればかりのせいだと言う気は無いけれど、目覚しく近代化して便利になった街は、その代償に自然を失ってしまった。
ここで生まれ育った子供達は、蛍など見たことがないのだろうな、と桂は残念に思う。
それと共に、生まれ育った町は確かに美しかったけれど、それも記憶の中の風景に過ぎないのだろうかと、そんな思いがふと頭をよぎっては寂しくなった。
あの頃と今とでは、自分を含め、変わってしまった事が多すぎる。
「蛍は今ごろ、故郷の川を探してさまよっているわけか」
どこまでいけば、甘い水はあるのだろうな、桂は思わず溜息をつく。
「どこまでねぇ……」
銀時の目はぼんやりと、残り少なくなったグラスを見つめていた。
「まぁ、意外と近くかもしれねぇし」
「近く?」
カラになった自分のグラスに手酌で酒を注いでいると、銀時が最後を飲み干して、俺も、と空いたグラスを差し出してくる。
「歩いて来れるくらいには」
近く、と少しかすれた声が続けた。
「だから、勝手に居場所を変えたりとか、ほんとアレ……」
呂律のあやしくなってきた銀時の声に、酔っているなと桂は苦笑する。
「銀時、何を言っているかわからん」
差し出されたグラスに注いでやると、その向こうに卓についた節の浮く銀時の手の甲が見えた。
とくとくと音をたてて、透明な酒が満ちていく。
ギシ、と卓がきしむ。
身じろいだ気配に桂が顔を上げると、すぐそばに銀時の瞳。
思わず目を閉じると唇が触れた。
身を乗り出した銀時と、円卓越しについばむようなキスをする。
余所見をして震えた桂の手が、瓶の口とグラスを触れ合わせて、カン、と高い音を響かせた。
そして再び向かいに腰を下ろす。
桂が少し唇を噛んで、甘いと告げると酔っ払いは満足そうな顔で笑った。