誰も居ない教室で一人、桂は窓から校庭を見下ろした。
さっき四限目の修了を告げるチャイムがなったというのに、今日は校庭に出ている者の姿はまばらで、誰も桂の存在に気を止めたりはしない。
この風景を見るのも、これが最後だろうか。
振り返った教室の黒板には、在校生が書いた『卒業おめでとう』の言葉と紅白の紙で作った花飾り。
卒業式が終わった後ここで最後のホームルームがあり、それぞれに写真を撮ったり、後輩との別れを済ませたりして卒業生は解散となった。
そしてその後、桂はこっそり校舎に戻ってきた。
教卓の前、中央の最前列。
誰の物でもなくなった席に座る。
目を閉じると、昼休みのざわめきは少し遠く聞こえた。
三年生の教室が並んでいるこのフロアには、今は桂しか居ない。
そんな中、耳は廊下を歩く、小さな足音を拾っていた。
ペタンペタンと、癖のあるだらしない足音が響く。
数歩歩いて、止まって、使うものの居なくなった教室にガチャガチャと施錠する音がして、そして鍵のかかったのを確かめるようにドアを引く音がして、また歩き出す。
その音は教室の数だけ繰り返されて、桂の居るこの教室に少しずつ近づいてきた。
校舎の一番端、最後に辿り着いたこの教室のドアの前で足音が止まる。
ガチャ、と鍵穴に鍵が差し込まれる音がして、ドアが微かに揺れた。
桂は何時の間にか息を詰めて、その扉を凝視していた。
けれど結局、鍵はかけられることはなくて、立て付けの悪いドアは聞き慣れた音を立ててその人物を教室に招き入れた。
「不法侵入者発見」
「先生」
銀八は卒業式と、そのまま教室に戻ってきたホームルームの間はかろうじて背広を着ていたものの、今はまたいつもの白衣姿に戻ってしまっている。
それだけなのになぜか胸がざわついた。
「何してんのヅラ。卒業生は解散っていっただろ。忘れ物か?」
「ヅラじゃありません、桂です。……来たくなったから、来ました」
正直、それ以外に言いようが無くて困る。荷物なんてとっくに持って帰って、空っぽの教室に忘れ物など有るはずも無い。
今日貰った卒業証書と後輩からの色紙以外、桂には荷物らしい荷物も無いのだ。
「あっそ、もう閉めんぞ」
その言葉に素直に動く気になれずにいると、銀八が溜息をついて教室に入ってくる。
その足取りが向かうのは、教卓じゃなくて桂の方へ、隣の机に行儀悪く腰を掛ける。
「卒業おめでとう、桂君」
見上げて目にしたその顔に、勝手に口が動いて、ぽろりと想いが口から零れた。
「先生、ずっと好きでした」
「知ってる」
一瞬の沈黙が落ちる。
「っていうか、付き合ってたよね俺ら」
「はい。何となく、言っておこうかと思って」
そう言うと銀八は困ったように、机に置いていた卒業証書の入った筒を取り上げて弄くった。
「何だか、今まで毎日学校に来て、みんながいて、先生に会えたのってすごいことだったんだなぁと思って」
「何?センチメンタル?」
青春だねぇ、と銀八がからかうように言ってくる。
「うるさい」
「はいはい」
こっちの心情になんてかまわないように、銀八の声は軽い。
嬉しいような寂しいような、自分でも持て余す気持ちをどうしようもなくて、俯いて見慣れた机の縞模様を見つめていると、銀八が机から立ち上がった気配がした。
「桂」
そして一歩、より近くなった距離で、銀八の声が響く。
その声が、今度はいつになく優しい気がして、それがまた気に障る。
「どうせ」
「ん?」
「どうせ、先生なんて心配するような振りして弱ってる俺につけ込んで……」
「え、ヅラ?」
「最後なんだから、とか言ってこのまま押し倒すつもりなんだ、ここで」
「ちょっ、どんなセンチメンタル!?」
「望むところです!」
望むのかよ、と突っ込んでくる銀八に立ち上がって詰め寄ると、勢いでガタンと椅子が鳴った。
ヨレヨレのくせに意外と固い白衣の生地を掴むのを、ポンポンと軽く頭を撫でていなされる。
「あのなぁ、さっきから最後最後って、卒業しても全部終わりなわけじゃないだろうが」
在校生が飾り付けてくれた黒板には『永遠の仲間』だなんて書いてある。
それでも不安は胸の片隅に浮かんでくる。
だって実際は、生活が変わればあっさり会えなく、会わなくなるのが普通だから。
そう言うと、
「ホント、空気読まねぇよな、お前」
知ってるけど、と銀八が苦笑する。
「捨てたら、先生に弄ばれたって訴えてやる」
「その上ネチッこいし」
そう言って、今度こそ笑われた。
こっちはいっぱいいっぱいなのにと腹が立つのに、頭を抱き寄せられて何も言えなくなる。
銀八がごそごそとポケットを探って、教室のとは別の、鍵の束を取り出した。
そこから一つだけ外して、机の上に置く。
「ヅラ、それウチの鍵」
「くれるんですか?」
「やらねーよ。俺もうちょっと帰れねぇから、お前代わりに買い物しといて」
うちの場所は覚えてるだろ。三階の、左から二番目。
先生のうちなら、一回だけ行ったから知っている。安そうなアパートで、その時は中までは入れてくれなかった。
銀八の言葉について行けなくて戸惑っていると、勝手に話を進められてしまう。
「今日は鍋な。豆腐と葱はあるから。肉と野菜と、あと適当に買っといて。あ、うどんも」
「俺は蕎麦の方が好きです」
「鍋に入れるって言ってるだろうが」
ポコンと、と筒で叩かれる。
それでコンコン、と銀八は自分の肩を叩く。
「卒業祝いするから、お前今日はウチに来なさい。そんでそのまま気が済むまで居ればいいだろ」
「同棲宣言ですか?」
「違います」
そう言って、またポコリと頭を叩かれた。
思わず目を閉じて、だから今日で最後なんて言わせねーよと言った銀八の顔を見そびれてしまった。
我ながらすごく惜しいことをしたと思う。